〈越境〉への戸惑い――境界侵犯のポリティクスを考え直す
司会:長島佐恵子
「『星の欠片に戻っていく』
――村田沙耶香『ハコブネ』と〈越境〉の語られ方、読まれ方」
黒岩裕市
ある境界を越える、越えない、越えられる、越えられないといったことはどのように語られ、読まれるものだろうか。本報告では、村田沙耶香の小説『ハコブネ』(2011年)を取り上げ、「人である以前に星の欠片である感覚が強い」という登場人物に目を向け、「性別」や「人間」とその「外側」との間の〈越境〉の可能性や不可能性を考察する。そのうえで、テクストに見出される〈越境〉可能性と不可能性の読まれ方についても検討したい。
「『流動性』賞賛で見落とされるもの
――90年代前半の笙野頼子文学にみられる物質的現実へのフォーカスの批評的可能性と限界について」
ヴューラー・シュテファン
笙野頼子文学に登場する「私」は、固定した輪郭をもたないとされるその「流動的」特質を以て、近代的自我や性別二元論を超越するものとして屡々評価される。しかし、本報告で90年代前半の作品を例に示すように、笙野の小説は正にこのような越境賞賛的読解では看過されがちである、笙野の「私」が女性として直面する物質的現実に寧ろ輪郭を待たせ、その抹消に抗うテクストである。この抵抗の批評的可能性と限界について考察したい。
「「レズビアンとか何かとは違って」
――石井桃子『幻の朱い実』における友人たちの親密な身体」
佐々木裕子
女どうしの深い友情はしばしば「レズビアン連続体」の概念のもとに、家父長制や異性愛主義への抵抗の可能性をもつものとして評価されてきた。だが性愛との類比という枠組は、友情それ自体における親密性や情動の内実に焦点を当てることを妨げるものでもある。本報告はこの問題を念頭に、石井桃子の『幻の朱い実』(1994年)について、互いの身体/に関わる出来事に着目し、どのような二人ならではのきずなが生じているかを検討する。